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袴田事件

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概要

1966年6月30日未明、静岡県清水市(当時)で、みそ製造会社専務の自宅が放火され、専務夫妻と子ども2人の計4人が刺殺体で見つかった。現場は全焼し、金品も奪われていた。
捜査は工場関係者に向かい、元プロボクサーで従業員だった袴田巖氏が同年8月に逮捕された。袴田氏は長時間に及ぶ強制的な取調べでいったん自白し、取調べ段階だけで多数の自白調書が作成されたが、公判では全面否認に転じ、その後も一貫して無実を主張した。
再審無罪判決も、この自白が黙秘権を実質的に侵害する状況下で得られた「非人道的な取調べ」によるものだと指摘している。

有罪の決め手とされたのは、事件から約1年2か月後に工場のみそタンク内から「発見」された5点の衣類だった。密閉されたタンクの底から、なぜその時期に突然出てきたのか。みそ漬けで色も血痕も判別不能になりそうなのに、血痕の赤みが残るのはなぜか。衣類のサイズや損傷、発見経緯の不自然さは、事件の「不可解さ」を象徴する論点になり続けた。

それでも1968年に死刑判決、1980年に確定し、袴田氏は拘置所で死刑囚として長期拘禁を受けた。死刑の執行日を告げられないまま歳月が積み重なり、孤立と緊張が日常化し、意思疎通が難しくなるほど心身が損なわれた。姉・秀子さんは面会や支援の窓口となり、弁護団とともに再審を求め続けた。

DNA鑑定や血痕の色調に関する鑑定などの新証拠を踏まえ、2014年に再審開始と釈放が決定し、検察の不服申立てを経て2023年に再審開始が確定した。
2024年9月26日、静岡地裁は袴田氏に無罪を言い渡し、自白調書や5点の衣類などについて捜査機関によるねつ造を認定した。
検察は同年10月9日に上訴権を放棄し、無罪が確定した。再審公判では検察が再び死刑を求刑し、袴田氏側は無罪を主張して結審した。
無罪確定後も、事件そのものの真犯人は特定されず、一家を失った側の喪失と、無実を訴えながら人生の大半を拘置所で過ごした袴田氏の時間が、重い現実として残った。

論点

・死刑という「国家による殺人」の重みが、冤罪であった時にどのようにのしかかるのか
袴田氏は長期にわたる拘置所での生活の中で死刑の恐怖にさらされ続けた結果、精神に異常をきたした(拘禁症状)。

・5点の衣類は、なぜ“その時期に”出てきたのか
密閉されたみそタンク、発見までの時間差、血痕の赤み。偶然で説明できるのか、誰かの意図でしか説明できないのか。

※参考URL
『「お前が4人を殺した」 無実訴える袴田さんを厳しく追及 当時の取り調べ音声』(朝日新聞):https://www.youtube.com/watch?v=OKdAUCZCmJ0
「本当に俺の一生をむちゃくちゃにしたのはあんたらだよ。一生忘れんぞ」と取調官に訴える袴田氏の音声。
袴田氏は拘禁症状の結果、自身が無罪になったことを認識しているかも外からうかがい知れない精神状態となったが、時折発言する内容の中には「警察・検察」「裁判官」など、自身が半生をかけて闘い続けた相手が含まれ、その過酷さを感じ取ることができる。(ドキュメンタリー映画『拳と祈り―袴田巌の生涯』より)

『袴田巌さんの死刑判決を書いた元裁判官 生前に語った後悔と訴え』(朝日新聞):https://youtu.be/mnmY2oQurUU?si=iWB5BVWk2J7I6nhh
無罪の心証を得ながら、合議した他の裁判官に圧され死刑判決を書いた一審の裁判官・熊本典道氏。袴田事件での死刑判決後、それを悔やんで弁護士へ転身したが、後悔と自責の念から路上で暴れたり、酒や借金に溺れたりと荒れた生活を送る。その後、袴田氏の無罪を訴える活動に従事し、無罪が勝ち取られた後に袴田氏との邂逅を果たす(前述の『拳と祈り』より)。既に熊本氏自身も病床に伏せており、会話もままならない状態であったが、熊本氏は「(袴田氏が)分かる」と口にした。

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